小学生の頃、感想文が書けなくて一人だけ居残りさせられることが多かった

感想文 雑記

最初の1行しか書けなかった

僕は昔、感想文を書くことが極端に苦手でした。いつも自分だけ感想が書けなくて先生に一人で居残りさせられていました。

例えば、道徳の授業とかって、授業の最後に感想文を提出させられることが多いですよね?

『授業中の感想を自由に書いてください』とか用紙には書いてあるんです。

なので僕は用紙に、

”〇〇はいけないとおもいました”

”〇〇がちょっとかなしかったです。”

”ぼくは今日の授業をうけて、なんかよかったなとおもいました。”

というような感じで、たった1行の感想文を提出してよく先生を困らせていました。

他の生徒に比べて圧倒的に語彙力ヤッホー状態だったわけです。

先生はそんな僕に対して、

”さすがに1行だけしか書かないのは駄目だよ?”

”みんなある程度の文章書いてるでしょ? ◯◯君も授業でもう少し思うところとかあるでしょ?”

”せめて最低でも5~6行は書かないと感想文とは言えないよ。”

などと言ってきて、よく放課後に僕を居残りをさせていました。

それで、放課後に頑張って感想文を書こうとするのですが、やはり筆が進みません。

どうしても最初の1行目以降から書けないのです。

そのような状態が毎回続いていたので、先生も困り果てている様子でした。

どうやったら感想文書けるようになるのかを質問しても、

”今日の授業のことを思い出したらいくらでも書けることあるでしょ?”

と言われ、なるべく自分の頭で考えて書かせようとしてきました。

当時の僕は1行目以降も感想文をスラスラ書ける感覚というのが全然理解できなかったし、いくらでも書けることがあると言われても分からない・・・・といった感じでした。

授業内容によっては自力で3行くらい書けることがあり、そんな時は大目に見てもらったのか、再提出を求められることが無かったこともありました。

しかし、大抵は少ない文章量では許してもらえず、もっと書きなさいだの考えなさいだの言われ、居残りさせられていました。

それで最終的に自力で書けていたのかというとそうでもなく、あまりにも書けない僕を見かねた先生が答えを教えてくれるように、

”今日の授業は〇〇の問題について考えたでしょ?だからかくかくしかじか・・・という風に書いてみたら?”

と口頭で言われ、それをそのまま書いて完成!ということが非常に多かったです。

さすがに小学校なので、夜遅くまで生徒を居残りさせることはできないようでした。

そのため、どうしても書けない時はわざと文章を考えるのをやめ、先生が感想文の例を示してくれるまでひたすら悩んでるフリをしたりしていました。

今考えると先生の悩みの種だったんだろうなと思います。

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感想文を1行しか書けなかった頃の思考

例えば以下のような文章があったとします。文章はChatGPTにて、「200字以内で何か悲しい話を考えて下さい」と送信した結果、出力されたものになります。

町の中心に住む老人、ユキノ。彼女は孤独で、唯一の友達は窓の外に咲く一本の花。ある日、花がしおれ、ユキノは不安に襲われます。やがて、花が枯れると同時に彼女も息を引き取ります。村人たちは気づくと、ユキノの家の前に新しい花が咲いていました。彼女の魂が花に宿っていたのです。それを知った村人たちは驚きと感動に包まれましたが、ユキノの孤独な生涯は、花が咲くことで終わりました。

仮に小学生の頃の自分がこの文書を読んで感想を書くとしましょう。おそらく僕は頭の中でこのように考えていたと思います。

◆町の中心にユキノさんというお婆ちゃんが住んでいたのか、ふ~ん・・・
◆窓の外のお花だけが友達だったのか、ふ~ん・・・
◆花がしおれてユキノ婆ちゃんは不安になったのか、ふ~ん・・・
◆花が枯れたらお婆ちゃんも死んだんだ・・・ふ~ん・・・
◆お婆ちゃんが死んだ後、家の前に新しい花が咲いていたんだ・・・ふ~ん・・・
◆お婆ちゃんの魂が新しい花に宿ったんだ、へ~。
◆それを知って村人は感動したんだ、良かったじゃん。
◆今まで1人ぼっちだったけどお花になって1人じゃなくなって良かったじゃん。

これらの思考から導き出される小学生の頃の自分の感想は
「おばあちゃんがひとりぼっちじゃなくなってよかったと思いました。」

文章の例としてはあまり適切ではないですが、おそらく小学生の頃であればこんな感想を紙に書いていたと思います。大分サイコな小学生ですね(笑)

こんな感じで、文章一つ一つから細かい背景を読み取ったり想像したりする能力というのが他の生徒に比べて圧倒的に欠如しており、ただ字面をそのまま受け取って理解しているだけでした。

ものすごく正直な感想を書いたら怒られた

ある日、僕は感想文に、

”今日の授業は何の感想も湧かなかったです。”

と正直に書いて提出したことがありました。

もちろん放課後に居残りさせられたんですが、先生の様子がいつもと違っておりました。

どうやら怒っているようです。

先生は僕にこう言いました。

”今日の感想文はさすがに酷いと思わない?こんなこと書いたら失礼でしょ?何のために今日の話をしたのかよく考えなさい。”

それに対して僕は以前からずっと疑問に思っていたことを先生に尋ねました。

『自由に書いてください』って書いてるのに駄目なんですか?

と・・・・・・。

すると、

”自由ってものにも限度があるでしょ!自由だから適当に書いていいって思ったら大間違いよ?ちゃんと自分の頭で考えて書きなさい!”

と怒られました。

今考えると、結局小学校の感想文というのは大人が理想的だと思う内容じゃないと再提出を食らう感じだったなと記憶しています。

そのせいか、通信簿では道徳の成績欄に

”人の気持ちをもっとよく考えましょう”

と書かれていたりしました。

どうやら既に小学生の頃から社会不適合者の烙印を押されてたようなものですね。

感想文がなかなか書けない状態は中学生になる頃にはある程度改善され、そこそこ書けるようにはなりましたが、それでも周りに比べると浅はかで短い文章しか書けなかった記憶があります。

こうやって記事書いてる今でも、何かの話題について感想を書けと言われても、その話題が自分にとって興味のないようなものだった場合、なかなか書けないですね。以上、小学生の頃は全然感想文が書けなかった話でした。

追伸

感想文をたった1行で終わらせていたような僕が、よく大学・大学院で論文書いて卒業、修了できたなと改めて思います。

今では色々あって、一度諦めたYouTubeに再挑戦して成功し、広告収益だけで生きていける状態を構築出来ているので、人生何があるか分かったものではないですね。

 

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