※この文章は、長年うまく整理できずにいた自分の記憶や思考を、AIの助けを借りながら言語化したものです。
自分が育った家庭は、外から見ればごく普通だったと思います。父は地方公務員として安定した仕事に就き、夕方には帰宅する生活。母は偏差値40前後の高校出身で、学歴として特別高いというわけではありませんでしたが、世間一般と比べて極端に特異な家庭環境ではなかったはずです。
ただ、振り返ってみると、両親の教育の仕方には大きな偏りがありました。
父は基本的に放任主義で、社会のルールやマナーについて丁寧に教えてくれる人ではありませんでした。良く言えば自由、悪く言えば「説明しない」タイプで、子供の頃の自分としては考えるための材料が足りない状態でした。
一方で母は、自分で決めた独自のルールを絶対視し、その根拠を説明することをほとんどしませんでした。こちらが矛盾を感じて質問すると、「あんたの考えがおかしい」の一言で終わり、疑問を持つこと自体が反抗とみなされてしまう。母自身に「説明する」という習慣がなかったのだと思いますが、子どもの自分にはその背景を理解することができませんでした。ただ「ルールは絶対」「従うことが正しい」という価値観だけが、強く刷り込まれていきました。
■地域と学校の空気がさらに価値観を固めていった
家庭だけでなく、地域そのものにも偏った空気がありました。自分が住んでいた地域はどちらかと言うと治安が悪く、複雑な家庭環境を持つ子が中には居たりしました。親が元ヤ◯ザの組員だったという家庭もあり、子ども同士の関係も理屈より、「空気」や「力関係」で動くことが多い環境でした。
実際、僕自身も小学生の頃、運悪くそうした家庭環境の子に目をつけられ、反抗できないまま半ば服従させられるような時期がありました。時々暴力を振るわれ、逆らったら何をされるか分からないという恐怖が常にあり、言いなりにならざるを得ませんでした。その体験もまた、「従うしかない」という思考を一層強めていったのだと思います。
さらに、小中学校も地域性の影響か校則は厳し目で、ルールの背景や理由を説明されることはほとんどありませんでした。「なぜ守らなければならないのか」は語られず、破れば怒鳴られるだけのシンプルな構造。教師の多くも「従わせること」を優先していたように見え、ここでも説明されない世界が当たり前として積み上がっていきました。
当時の地域では、僕だけでなく多くの子どもが「ルールさえ守っていれば問題ない」という価値観を共有していたように思います。むしろ、ルールの“抜け穴”を見つけることが上手な子ほど賢いとされ、一見すると不誠実に見える行動でも、「規則に引っかかっていないならセーフ」という空気がどこか当然のように流れていました。
周囲には、そうやって規則の隙を突いて立ち回らないと損をすると本気で考えている同級生も多く、僕自身もその環境の中で「ルールの内側にさえいれば悪ではない」という思い込みを強めていきました。
その影響で幼少期から思春期にかけて、僕の中には
「ルールを守る=善」「守らない=悪」
という単純で極端な価値観が形成され、そのまま疑う機会もなく大学に進学するまで定着していきました。
■大学時代─その価値観が崩れ始めるきっかけの講義
そんな自分の価値観が崩れるきっかけとなったのが、大学の倫理学の授業でした。
期末試験で「法律と倫理について自分の考えを述べよ」という問題が出た際、僕は幼少期からの刷り込みのまま、
「法律に従っていれば倫理的にも問題ない」
といった内容の文章を書いて提出してしまいました。
深く考えるという習慣もなく、
“従う=善”
という価値観のまま回答してしまったのです。
試験は返却されない形式でしたが、後日、教授が教壇の上で怒りを爆発させました。
「こんなふざけた回答を書いてくる学生がいるとは思わなかった!
こんな奴はもう俺の講義に来なくていいからな!」
名指しはされませんでした。しかしその瞬間、自分の回答だと分かりました。胸が冷たくなり、「常識」とされる価値観が自分だけ根本的にズレていたことを突きつけられた思いでした。
勿論その講義の単位は取得出来ず、点数も0点。試験で0点を取った経験は自分の人生の中でこれが最初で最後です。
■そして今─「あの価値観にならざるを得なかった理由」が見えてきた
ただ、今振り返ると、僕はそう考えるしかない環境にいたのだと思います。
・説明しない家庭
・説明のない学校
・説明が通じない地域の空気
・力関係で決まる子ども社会
・従うことでしか生き残れなかった小、中学生時代
これら複数の要因が積み重なり、「法律=倫理」「従う=善」という偏った価値観が形成され、それが長く修正されず残り続けていたのです。
もちろん、今はもうその価値観のままではありません。しかし、僕が昔その価値観に至ってしまった理由が明確になった事で、過去の自分を過剰に責める必要がなくなってきました。
中には法律と倫理の区別が付かない先天的な障がい(サイコパス等)をもって生まれた人間も存在していたりはするのですが、家庭や地域環境の特殊性によりそういった価値観を持って成長せざるを得なかった僕みたいな人間も一定数存在しているのではないかと、最近思うようになってきた次第です。

コメント