「魂の修行」という言葉への強烈な違和感
世の中の霊能者やスピリチュアル系インフルエンサーが、判で押したように発信する言葉があります。
「この世は魂の修行の場である」
これを聞くたびに、僕は正直クソ喰らえと思います。
もちろん、この考え方を信じることで救われる人がいることは否定しません。
「今の苦しみには意味があるんだ」と思うことで、辛い現実を乗り越えられるなら、それは一つの処世術でしょう。
ただ、それを「宇宙の絶対的な真実」であるかのように語られると、どうしても看過できない「残酷さ」と「欺瞞」を感じてしまうのです。
【重要】自タヒを肯定しているわけではありません
誤解を招かないよう、先にこれだけははっきりと伝えておきます。
僕は自タヒを肯定したり、推奨したりしている訳では決してありません。
生きていれば美味しいものも食べられるし、面白いゲームもできる。可能性が残る以上、生きていた方が絶対にいいに決まっています。
今苦しんでいる人に対しても「タヒんだほうがいい」なんて口が裂けても言いません。
しかし僕が許せないのは、極限まで追い詰められて自ら命を絶ってしまった人に対して、安全圏にいる他人が「それは魂の修行の放棄だ」「魂のレベルが低い」「来世でペナルティがある」「地獄のような世界を彷徨う事になる」などと、スピリチュアルな理屈で上から目線でジャッジを下すことです。
その本人にとってはその苦しみが世界の全てであり、限界だったかもしれない。
最後まで生き抜くことだけが正解で、途中で降りることは不正解。
そんな採点表を、誰が勝手に作ったのでしょうか。
理不尽なタヒを「物語」で消費するな
世の中には、どうあがいても報われない環境で一生を終える人、理不尽な暴力で命を奪われる人、心が壊れるまで搾取され続ける人がいます。
そうした凄惨な人生も含めて「魂の修行」と言い切ることは、まるでタヒ後の救済が保証されているかのように聞こえます。
でも、タヒ後の世界なんて誰にも証明できません。
もしタヒ後に意識がなかったとしたら?
もし来世なんてなかったとしたら?
その人の苦しみは「魂の成長」なんて高尚なものではなく、ただただ「理不尽な苦痛」でしかなかったことになります。
「修行説」を語れるのは、結局のところ、その苦しみを乗り越えて生き延びた「生存者」だけなんです。
耐えきれずにタヒんでしまった人の無念や、声を上げることすらできなかった弱者の現実を、
生き残った人間が
「あれも修行だったのに、本人が気づけず終わってしまった」
などと後付けで語り、残念がる。
あるいは、歯を食いしばって数年の地獄を耐え抜き、結果的に成功した「今」から過去を振り返り、
「あれは魂の修行だったんだな」「生まれる前に自分で設定してきた課題だったんだな」
と納得したように語ること。
その語りは一見すると前向きですが、同じ地獄の中で力尽きた人間の存在を、結果論で否定してしまうという点で、僕にはどうしても傲慢に見えます。
それは「救い」ではなく、生存者による「暴力」ではないでしょうか。
紙一重だった「運」と、闇に消えた人たちへの想い
なぜ僕がここまで強く思うのか。それは僕自身が、かつてその「極限」に近い場所にいたからです。
僕は24歳から29歳までの約5年間、まさに地獄のような日々を過ごしました。
お金もなく、将来への希望もなく、頼みの綱であるYouTubeや個人事業も全く結果が出ない。それでも、僕にとっては「社会に出て外で働く」ことへの苦痛が異常に強く、「働きに行くくらいなら、タヒんだ方がマシだ」と本気で思っていました。
あの時の精神状態は、甘えとか逃げとかいう言葉で片付けられるものではありません。「タヒ」が具体的な選択肢として隣にある状態で、歯を食いしばって耐え続けた5年間でした。
結果として、僕は今こうして生きています。 でも、それは僕の能力が高かったからでも、魂のレベルが高かったからでもありません。 はっきり言いますが、本当にただ「運が良かった」だけです。
僕と同じように、社会の理不尽さに耐えきれず、自由を求めて独立や動画投稿に挑戦した人は山ほどいます。しかし、その大半は日の目を見ることなく、人知れず消えていきます。貯金が底をつき、精神を病み、生活保護を受給するしかなくなった人。あるいは、最後の気力すら尽きてしまい、自ら命を絶ってしまった人。
僕と彼らの間に決定的な差なんてありませんでした。たまたま時代の波に乗れたか、たまたま心が折れる前に結果が出たか。
本当に紙一重の差で、僕がそちら側(自タヒを選んだ側)にいても全くおかしくなかったのです。
もし僕があの時、あと半年結果が出るのが遅かったら?
もし心の糸があと1本切れていたら?
僕は全てを諦めて生活保護申請していたか、もしくはこの世に居なかった可能性もあるのです。
だからこそ、僕は「この世は魂の修行」なんて言葉で、この残酷な生存競争を美談にしたくありません。
生き残った側が「あれは必要な修行だった」と語ることは、同じ苦しみの中で散っていった人たちに対して、「お前たちは修行に失敗したんだ」と唾を吐きかけるのと同義だと思うからです。
「自分はたまたま運良く生き延びただけ」
そう認めることこそが、あの地獄のような暗闇の中で足掻き、力尽きていったかもしれない人たちへの、僕なりのせめてもの誠意なのです。
「神様のUI(ユーザーインターフェース)」仮説
百歩譲って、神様や高次存在がいて、「この世は修行だ」と言っているとしましょう。 それでも僕はそれを真に受けるつもりはありません。
人間ですら会社組織を回すために「やりがい」という言葉で労働者を搾取することがあるように、高次存在だって人間を管理するために「修行」という分かりやすい方便を使っている可能性だってあります。
「辛くても修行だと思わせておけば人間は自害せずに頑張り続けるから都合がいい」
そんな管理側の意図で作られたシステムだとしたら?
そんな「物語」を真実だと信じ込んで、自分や他人を追い詰める必要なんてどこにもないはずです。
結論:意味なんてなくていい
僕は不思議な現象や、運の流れといったものを信じる事を否定するつもりはありません。
そういうのを信じる事で救われている人が一定数居る事も事実ではあるからです。ただ、それを他人の人生の採点表として使うことには強い違和感を覚えるので、「この世は修行だ」「だからこう生きろ」という思想までセットで信じ込む必要はないと思っています。
苦しい経験に、無理やり「スピリチュアルな意味」を見出そうとしなくていい。
「これは修行だ」なんて納得しなくていい。
ただ「今はクソみたいに辛い」「理不尽だ」と吐き捨てて、泥臭くやり過ごすだけでもいいはずです。
誰かが作った「魂の採点表」のために生きるのではなく、自分の感覚と倫理観を信じて生きていく。 それが、あの地獄の5年間を生き延びた僕なりの答えです。
※補足
この記事は、AIの力を借りながら書きました。
といっても、AIに思想を作ってもらったわけではありません。
僕の中にずっと溜まっていた違和感やモヤモヤ、言葉にできなかった感情を、
「どう考えているのか」「何に引っかかっているのか」
を整理するための壁打ち相手として使った、というのが正確です。
出てきた言葉や結論は、すべて僕自身の感覚と経験に基づくものです。

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