会社辞めたけりゃ勝手に辞めればええやん!!
この言葉は、僕が就職して間もない頃、上司に面と向かって言われたことである。
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いきなりこんな出だしで申し訳ありません。
まず最初に、僕が上のようなことを言われるまでの人生の過程について書いていきたいと思います。
かなりネガティブな内容が多いことと、結構長くなるので、これ以上読み進めたくない方はそっとページを閉じることをおすすめします。
~小学校時代~
僕が小学校低学年だった頃、周囲の子に比べてものすごく人見知りで集団行動が苦手であった。気づいたら僕一人だけが全く別のことをしていたり、グループから外れて好き勝手やっていたりもした。
例えば授業中、先生の話を聞かずに好きなページばかり読んでいたり、消しゴムのカスを集めて丸めていたり、授業と全く関係のないことを考えたりしていた。
集団行動が特に大事な体育では、僕一人だけがグループから外れてボーッと佇んでいたり、先生が号令をかけても自分だけ気づかなかったり、運動場で体育座りして皆が先生の話を聞いている中、自分だけが地面に落書きして遊んでいたりした。
そうやって皆とは違う行動ばかりしている僕に対して、先生は何度も叱った。
『どうしてみんなで協力して行動できないの!』
『今やらないといけないことが何か分かってる?』
『人の話をちゃんと聞きなさい!』
『ちゃんと周りに合わせて行動しなさい!』
『ボケッとしてないでさっさと動きなさい!』
そう言われてばかりの僕であったが、根の性格はクソが付くほど真面目であったため、いつも「ごめんなさい」と謝っていた。また、超が付くほど泣き虫な性格であったため、怒られるたびにしょっちゅう泣いていた。
頭の中では悪いことだと理解していたが、無意識で関係ない行動をしてしまうため、自分でもどうしようもなかったことを覚えている。
そんな僕のことを周りは異常だと思ったのか、よくいじめてきた。いじめっ子に毎日のように頭を叩かれたり物を隠される等の嫌がらせをされた。
さきほど書いたように僕は超泣き虫であったため、軽く頭を叩かれた時のちょっとした痛みや、自分の物を隠された時の不安感だけで大声を上げて泣いてしまっていた。
僕に軽くちょっかいを出すだけで泣き喚いたりする事の噂はすぐに広まり、いじめはエスカレートしていった。
上履きを窓から放り投げられたり、机に落書きされたり、何故か一切関わった事の無いような上級生にすら目をつけられたりもした。バカ、キモい、頭悪い等、ありとあらゆる悪口も言われた。
そんな僕の唯一の楽しみはテレビゲームだった。親がゲーム好きであったため、自宅にプレイステーション(PS1)が置かれていた。
朝起きたら学校へ行き、一通り学校生活が終わると真っ先に家に帰り、いじめで溜まったストレスを発散するためにゲームばかりする生活を送っていた。
そんな感じで時は流れていき、小学校生活も後半に差し掛かった。
その頃にも時々いじめはあったし、突発的に集団から外れた行動を取ることもあったが、低学年の頃に比べるとかなりマシにはなった。自分のことを理解してくれる友人も何人かできていたので、それなりに小学校生活後半は楽しめていたと思う。
~中学校時代~
時は流れ、中学生となった。
人見知りな性格はそのままであり、自分から友達を作ろうとはしなかったものの、運良く話しかけられるなどして数人の友人に恵まれた。
稀に周囲と違う行動を無意識にしてしまって迷惑をかけることもあったが、”個性”で片付けられることが多かった。
中学生になっても趣味はゲームのままであり、部活動にも入らず、家に帰ったらゲームばかりしていた。
またこの頃になると、親に
『中学校は勉強が難しいから、よく勉強しておきなさい』
『予習、復習はしっかりしておきなさい』
『しっかり勉強していれば、いい高校に行ける』
『ゲームはほどほどにしなさいね』
などとよく言われていた。
僕はクソが付くほど真面目な性格であったため、親の言うことを信じ、授業をしっかりと受け、学校から出された宿題をしっかりこなしていた。宿題が終わったら、もちろんゲームばかりしていた。
周りに比べて勉強していたつもりではあったが、もともと頭がいいほうでは無かったため、いつも決まった時期に行われる中間・期末・実力テストではほぼ毎回、平均よりほんの少し高いくらいの点数に落ち着いていた。
しかし中学校2年生になった頃から環境は一変した。通っていた中学校が一気に荒れ出したのである。
授業のエスケープ、授業中に廊下を走り回る、窓ガラスが割られる、金属バットを持った不良達がたむろしたり教師に喧嘩を売ってまわる等といったことが頻繁に起こった。とある不良グループが他校の不良グループに喧嘩を売り、乱闘事件にまで発展したこともあった。
あまりにも酷い時には警察が校内を巡回していることもあった。そういった酷い環境であったため、授業に集中できるわけがなかった。
また僕はこの頃から、よく不良達からターゲットにされるようになった。
廊下を歩いている最中、通りすがりに腹パン(お腹を殴られること)を食らう。通りすがりにわざと肩をぶつけられ、恫喝される。何もしてないのに急に胸ぐらを掴まれ、睨まれる。それを傍から見て笑う他の不良達。
問題行動ばかり起こす不良生徒が多く徘徊する酷い環境の中で、僕は身体的・精神的苦痛に耐えながら毎日登校していた。
本当は学校に行きたくなかったが、親に
『あんたが精神的に弱いからつけこまれるんでしょ?』
『不登校になったら出席日数が足りなくなって受験できる高校が限られるよ?』
『高校受験シーズンになったら嫌でも落ち着いてくるから、今は我慢の時よ!』
などと言われ、結局我慢して毎日登校していた。
しかし現実は甘くなく、中学3年の高校受験シーズンになってからも学校の荒れは収まらず、むしろ酷くなっていった。
もちろんそのような環境では全く勉強に集中することもできず、学校で毎日怯えるように、ただ何も起こらないことを期待して時が過ぎるのを待ち、下校時間になったらすぐ帰宅。あとは好きなゲームでストレスを発散する日々を送っていた。
その影響が出たのか、中学校3年生夏休み直前の実力テストにて、5教科合計500点満点中、100点台を叩き出してしまった。このままでは県内で最も偏差値の低い高校くらいにしか受からないという状況であった。
僕は人の迷惑を全く考えずに行動する不良達の事が吐き気がする程大嫌いで、常に心の中で全力で見下しながら嫌な中学校生活を必死に耐えてきたのに、その結果がこの有様であった。
実力テスト500点満点中100点台というのは、下手をすれば猿のように校内ではしゃぎまくる頭の悪い不良連中と同じくらいのレベル・・・いや、最悪それ以下なのである。
この事実を知った時、真面目に学校生活を送り、授業も真面目に受けてきた自分が、この程度の学力しかなかったのかと絶望した事を覚えている。実際は真面目に授業を受けているように見せてきただけであり、現実は周りの不良の度重なる妨害により集中力が削がれ、授業の内容なんて頭に入っていなかったのであるが・・・。
この現実を目の当たりにした時、僕は
『勉強しなかったら自分をいじめてくる不良と同じレベルの高校に進学してしまうことになる』
と本気で思った。
しかし高校受験までは半年くらいしか残ってないし、ここから点数を上げていけるか不安で仕方なかった。
丁度その頃、別のクラスの友人から塾の誘いを受け、僕は友人と一緒に入塾することにした。塾は学校と違い、勉強のみに集中することができた。個人経営の小さな塾であったため、塾生ひとりひとりに対する対応も非常に丁寧だった。
そういった環境で集中して勉強に取り組んだ結果、高校受験直前の校内実力テストで500点中350点以上とることができた。また受験本番でも7割以上の点数を取ることができ、なんとか県内の大学進学校に受かることができた。
僕にとって中学2年から3年の時期は本当に地獄のような日々であったが、塾に誘ってくれた友人のおかげで何とか受験を無事に切り抜けることができた。
この時は頭の悪い不良連中が行くような偏差値の低い高校に入学するハメにならず、ある程度まともな教養ある生徒達が集まる高校へ進学出来た事に心の底から安心していた覚えがある。
今では全く付き合いは無いが、この頃塾に誘ってくれた友人には今でも本当に感謝している。
~高校時代~
中学校を卒業した僕は、たちの悪い不良達から解放されたことに安心していた。
高校入学初日、進学校ということもあって校内の環境も素晴らしく、皆真面目で、問題行動を起こす生徒を全く見かけないことにとてもびっくりしたことを覚えている。
今思えば進学校だから当たり前であるが、誰も問題行動を起こさずに授業が淡々と平和に進んでいく状況が素直に嬉しかった事を覚えている。
人見知りな性格は変わらず、部活に入ることもしなかった。友達もあまりできなかったが、それでも中学の頃と比べると天国のように思えた。
放課後には家にそのまま帰ってゲームするか、数少ない友人と集まってゲームするかして遊んでいた。
また、この頃あたりから、
『勉強していい大学を出て就職すれば将来安泰』
『せっかくいい高校に入ったんだからゲームばかりしてないで勉強もしなさいよ?』
などと親から言われるようになった。
僕自身、勉強のおかげで良い環境の高校に入れたことは素直に嬉しかったので、これからも勉強をしっかりしていれば大丈夫だと、この時はなんとなく思っていた。
一方、悩みもあった。
僕は基本的に集団行動が苦手な性格だということは最初にも述べたが、その影響が出始めたのもこの頃からだった。
『なんかお前って気が利かないよね、もっと気を利かそうぜ』
『いつも孤立してるけど大丈夫か?』
『部活動くらいはやっておいた方が社会に出たときにメリットになると思うんだけど・・・』
他にも色々なことを同じクラスの仲間に言われたりした。
『あいつって、なんか変わってるよな・・・』
と言う声も聞こえてきたりした。
このまま僕の噂が学校中に広まれば、小・中学校時代の頃のようにいじめに遭うかもしれない、という恐怖感があった。
しかし、その心配は無用であった。どうやら周りからは“変わり者”のレッテルを貼られているだけのようであり、だからといっていじめにまで発展するということは無かった。
ただ、中には自分が普通ではないことに対してトゲのある言い方をしてくる人も居たので、そう言われるたびに罪悪感みたいなものを感じていた。
高校2年生の頃、自分があまりにも周りから浮いている事が気になりだし、自宅にあった父親のパソコンで「自分 他人と違う」と検索した。すると“アスペルガー症候群”という、当時は世間的にそこまで認知されていなかった発達障がいの名称の1つがヒットした。今では自閉スペクトラム症(ASD)と言われる障がいである。
どんな症例なのか気になって調べてみた所、あまりにも自分に当てはまる項目が多く、アスペルガー症候群自己診断サイトでも素直に質問に答えて40点以上の数値を叩き出してしまった事を覚えている。境界線は確か30点前後だった記憶があり、そこを超えるとアスペルガー症候群の可能性が高いと診断されるサイトであった。
この時、自分は集団から浮いた行動を取ってしまう障がいを持っている可能性が非常に高い事を初めて知り、もしかするとこれが原因で自分は今までいじめられていたのではないか、不良のターゲットにされたのではないかと思うようになった。
自己診断の点数があまりにも高すぎる事に不安を覚え、両親に相談したりもした。しかし残念ながら両親には発達障がいに対する理解が一切無く、ただの個性だから気にするなと逆に怒られただけであった。
発達障がいの診断を受けてみたいから心療内科か精神科に連れて行って欲しいとお願いしてみた事もあったが、勉強してそこそこ偏差値の高い高校に行けてる時点で障がい者な訳無いだろと一喝されただけで終わった(発達障がいの認知が高まった現在でも両親からの理解は一切無く、ASDの診断を受けた事も今だに無い)。
時は流れるのはあっという間で、気づいたら大学受験シーズン。この時期では個人的に特殊な事情があり、学校の先生や周りの人達を心配させたりした。
対人恐怖症が酷かったのもあり、面接試験が無く筆記試験のみで合否が決まる学部を選んで受験し、なんとか自分の努力が実って希望の大学に進学することができた。
~大学1~3回生の頃~
大学生になってからも集団行動が苦手なのは変わらず、自分から友達を作ることはなかった。基本的に大学で講義を受けたらそのまま家に帰り、好きなゲームを寝る時間までプレイする生活を送っていた。
高校2年生の頃に知ったASDの事が時々頭をかすめたりもしていたが、両親が発達障がいに全く理解が無い事、発達障がいをただの甘えだと言って一切話を聞いてくれない事もあり、それが原因で正式に診断が降りるのは世間的に恥ずかしい事であり、心無い人達から見下される事なのかもしれないという先入観が刷り込まれてしまい、結局医療機関へ足を運ぶ事は無かった。
そのせいで、自分はASDだから周りとうまくやっていけないのか、それとも単純に自分がダメな奴なのか、正式な診断を受けてみたいけど、もし本当に発達障がいだったら周りからどう見られる事になるのか・・・などと1人で悶々と悩みながら大学生活を送っていた。
気づいたら大学1年目の夏休みに差し掛かっていた。小・中・高校と違い、60日以上の休みがあることに驚いたのを覚えている。もちろん僕は、その約60日間を好きなゲームをするためだけに費やした。僕にとっては最高の時間だった。
そのままあっというまに夏休みは終わり、また大学に講義を受けに行っては家に帰ってゲームするだけの日々に戻った。
そんな生活の中で、偶然6人の友達と知り合った。お互いに趣味が合い、大学の講義が全て終わった後にしょっちゅう集まってはゲームキューブを起動し、スマブラDXばかりやっていた。この頃は割と楽しかったと今でも思っている。
肝心の単位であるが、卒業に必要な分だけ履修し、ひとつひとつの科目でそこそこ良い成績を取れるように頑張っていた程度である。将来の仕事については全く考えておらず、とりあえず良い成績をとっていれば何とかなるだろうとのんきに構えていた。
時が流れるのは早いもので、気がついたら研究室配属の時期に差し掛かっていた。研究室仮配属アンケートが配られ、その用紙に自分が所属したい研究室の名前を記入することとなった。
正直、僕はどの研究室に行きたいのかよく考えていなかった。一応なんとなく興味のある分野はあったので、その分野に関連する研究室の名前を適当に書いてアンケート用紙を提出した。
しかし同じ学部内のとある人物が、僕がその研究室に配属願いを出したことに不満があったらしく、僕のことについてあることないことを周りに言いふらし、僕が希望している研究室を辞退させようと裏で画策していた。
研究室配属が正式に決まる直前になってから、僕は友人からその人物についての具体的な内容を聞かされる事になり、それで不安になってしまった僕は元々希望していた研究室を辞退し、他の研究室を希望することにした。
配属が決まる直前で研究室を変更したことによるしわ寄せは周囲にも及び、色々な人に迷惑をかけたため、非常に申し訳ない気持ちだった。
今思い返すと僕自身が純粋すぎる性格なのも問題であるが、ほとんど関わったことのない他人に対して平気で陰口を言いふらし、排除しようとする輩が大学生にもなって存在することに驚きを隠せなかったのを覚えている。
~大学4回生の頃~
研究室配属して卒業研究が始まった頃、さっそく進路希望調査のアンケートが配られた。アンケート内容は大学卒業後に就職するか、もしくは院に進学するか選ぶというものだった。
僕は、大学院進学を希望した。ここから人生の歯車が狂い出すことになった。
僕はこれまで生きてきた中で、自分が将来どのような仕事に就きたいのか何も考えずに過ごしてきた。また人見知りな性格が災いし、就職活動を行うことに人一倍恐怖を感じていた。
就職活動を通して会社に自分の事をアピールし、普段考えてもいないようなことを喋りつつ自分を売り込んでいくということに、どうしても違和感があった。
『良い学校に行って良い成績を取れば、良い仕事にありつける。そうすれば幸せで安泰な人生を送れる。』
今まで親や周囲の人達に言われてきた言葉が頭をかすめたりもした。
しかし、仮に安定した良い仕事にありつけたとしても、それが自分にとってやりたい仕事じゃなかったら、果たしてそれは幸せと言えるんだろうか・・・と、心のどこかで思うようになっていた。
色々悩んだ末に大学院に進学することを選択したわけだが、その理由は決して褒められるものではなかった。
より深く学ぶためでもなく、研究に引き続き没頭するためでもなく、社会に貢献するための知識を身につけるためでもなく、就職するのが怖かったのでそうしたのだ。
『就職活動が怖い』『就職することが怖い』
『面接の場で心にも思ってもないことを、あたかもそう思っているかのように振る舞い、喋らないといけないのは絶対無理』
そう思ったので、僕は社会から逃げるために院進学を希望した。
表向きの理由として
『もっと勉強して、さらに研究に打ち込みたい』
と両親に話した。
両親に嘘をついたことはそれまで何度かあったりはしたが、そんな嘘は大したことないと思える程重い嘘をついてしまった。この嘘のせいで親に高い学費を払わせることになってしまったし、いまだに思い返すと心が痛む。
~大学院時代~
就職活動が怖い、社会に出るのが怖いという理由で進学したため、もちろん研究なんて没頭できるわけがなかった。ただそれでも勉強に関しては真面目に取り組み、単位だけは取りこぼさず、卒業に必要な分は完璧に仕上げた。研究の方はうまくいくわけもなく、なあなあで進行する感じであった。
ひと通り研究して家に帰ったら、現実逃避のためにゲームばかりしていた。大学院に進学する前までは純粋に楽しめていたはずのゲームが、この頃には純粋に楽しめなくなっていた。
時が流れるのは早く、気づいたら修士2年目に入っていた。ずっと気にしていた就職活動の再来であった。大学4回生の時に就活から逃げていたため、今回も非常にまずいと内心焦っていた。
しかし、自分から行動に移すことは一切無かった。就活に対する恐怖のせいでどうしても行動できず、元々うまくいってない研究にもさらに支障がでるようになった。
家に帰ったら親に就活のことで聞かれるし、大学でも教授に、
『研究はどうなった』『就活はどうなった』
と聞かれる。
いつまでも就活に踏み込まない僕を心配しているのは明らかだった。
ひたすらごまかして就職活動を先延ばしにするたびに、周りの言葉の重みが増してくるのを感じていた。
ある日、心配した友人が『この会社受けてみたら?』と、ある会社を勧めてきた。
友人は既にその会社を受けたらしく、聞いた話によると、何故かいとも簡単に受かってしまったらしい。
僕自身はやはり将来何がしたいか分からなかったが、このまま親や周囲に迷惑をかけるのもまずいと思い、友人に勧められたその会社を受けることにした。
書き慣れない履歴書を手書きで必死に書き、自己アピール文も無理やり捻り出して、なんとか形にした。そしてその会社に履歴書を送り、しばらくして面接日程が決まった。
当日、着慣れないスーツと締め慣れないネクタイをして面接に臨んだ。人見知りな性格が災いし、面接中はとにかく緊張して気が狂いそうになった。
面接官の質問に対して支離滅裂な返答をしてしまったりと、傍から見れば会話が成立しているのかしていないのか分からないような、非常に危うい状態であった。
面接終了後はそのまま逃げるように帰宅した。まだ夜7時ぐらいであったが、極度の緊張と不安のせいで一気に押し寄せてきた疲れとともに布団に潜った。
こんな調子では1次面接すら受からないだろうと、半ば諦めていた。
しかし数日後、1次面接通過のお知らせが電話で届いた。
正直なぜ通ったのか分からなかったが、最終面接の日程が届けられ、再度その会社に面接を受けに行くことになった。
1次面接の時と同じく着慣れないスーツとネクタイを締め、ぎこちない面持ちで面接に臨んだ。面接官は社長ただ1人であった。
質問内容は1次面接と被っているものが多く、そういった質問に対してはある程度うまく答えられた。しかし、それ以外の質問にはやはりテンパってしまい、支離滅裂な説明をした挙げ句、『申し訳ありません・・・上手く答えられないです・・・』
と締めくくる感じになってしまった。
最終面接が終わり、帰りの挨拶をしてそのまま逃げるように帰宅。一気に疲れが押し寄せて来て、その日は何も考えられなかった。面接中の会話を思い返してみても、僕がその会社に受かる要素というのが一切見当たらなかった。
絶対に落ちたと思った。会社に試験を受けに行くだけで、こんなにしんどい思いをしなければいけないのかと思うと、今後の就職活動がものすごく絶望的に感じた。
しかしそれでも、どこかの会社に拾ってもらわない限り就職活動は終わらない。そのため、無理やり身を起こして2社目を受けに行った。しかし、その会社の面接での質問内容に絶望した。
『あなたの研究している事について、一般人が聞いても理解できるように説明してください』
僕の研究は残念ながら、一般人に分かるように説明すること自体がほぼ不可能なテーマであった。僕の前に研究していた先輩でさえ、その点でものすごく苦労したと言っていたことを思い出した。
結局、一般人には到底分からない専門用語を喋りまくり、面接官の顔をしかめさせただけで終わった。
もちろんその会社は1次敗退で終わった。この時点で、僕の心は折れかけていた。
たった2社しか受けていないのにもかかわらず、ここまで精神的に疲弊してしまうのではこの先が思いやられる。もう就職活動のことなんか考えたくもなかった。
そんな矢先、1本の電話が入った。出てみると、なんと1社目に受けた会社からだった。
最終面接を通過したとの連絡だった。完全に落ちたと思っていたが、何故か通ってしまっていた。一体その会社の社長は、僕の何を評価して採用したのだろうかと思った。全く理解できない結果だったが、1社目に受けた会社に運良く拾ってもらったようだった。
そこで僕は就職活動をストップし、再び研究室生活に戻った。
会社に受かったことで、両親や祖父母、親戚等から
『会社通ったのね!おめでとう!』
『ようやくあんたも一人前になるのね~!』
などの褒め言葉をもらった。大学の友人、研究室の教授からも同様に喜ばれた。
僕のやりたい仕事では無かったことと、本当にこれで良かったのかという違和感に襲われたりしたが、それと同時に無事社会人にはなれるようだという安心感はあった。また県内では割と給料の高い会社らしく、周囲からは将来安泰だと思われているようだった。
就職活動が終了して時が経ち、気づけば修論発表会が迫っていた。もともと就活から逃げる目的で院に進学したため、研究がうまくいっているわけが無かった。
論文を書く際もデータに乏しかったため、無理やり捻り出した考察でひたすらページをかさ増しするなどした。その結果、内容が薄っぺらく何の面白みのない論文が出来上がった。
修論発表会当日では研究をなあなあでやってきた事が浮き彫りとなり、質問時間の際に学部の中で最も厳しいことで知られる教授に質問すらされず、ひたすらダメ出しを食らった。自分はそのダメ出しに対して言い訳のような説明で無理やり時間を使って押し通したことを覚えている。
発表会が終わった後、精神的にどっと疲れが押し寄せると同時に、こんな無様な発表会で終わるくらいなら就職から逃げるために大学院に進学しなければよかったと、ものすごく後悔した。
僕が中学3年生の夏休み以降勉強を頑張るようになったのは、それまでゲームが好きな事以外に何の取り柄も無く、心無いクラスメイト達にしょっちゅういじめられていた自分を変える為だったからだ。
高校進学後も地頭が悪いながらも勉強を頑張り続けて大学に入ったのは、人間関係やスポーツ等がうまく行かなくても、他人とうまく喋れない程人見知りでも、勉強さえ出来ればいくらでも人生を挽回出来ると信じてやってきたからだ。
勿論大学でも勉強だけはしっかりしておこうと、大半の科目は優・良・可の内、優判定を取り続けてきた。さすがに根っからの天才には勝てなかったけどね。
そんな中で就職活動の時期が差し迫り、そこに来て初めて「勉強が出来るだけでは社会で渡っていけない」という現実を見せられた時、ものすごくショックを受けた。
大抵の職業、というより99%の職業では、勉強が出来るだけでなく、他人とうまくやっていく為の処世術、予想出来ないトラブルに柔軟に対応する能力も必要であった。しかし僕には勉強が出来る事以外の能力が皆無に等しかった。
であれば、世渡り上手になる為の勉強や、予想外のトラブルに柔軟に対応する為の練習をしないといけないのだが、どんな風に練習していけば普通と呼ばれる人達のようになれるのか分からなかった。
それに僕自身、一般人のようにどんな状況においても当たり障りなく柔軟に対応出来ている姿が全く想像出来ず、かつそんな自分を無理矢理想像した時に、自分が自分でない感覚を覚えた。だから就職から逃げる為に大学院に進学した。
一応無事に修論の単位は獲得でき、修士という肩書きは手に入ったが、正直言って全く誇れるものではない。2年間の大学院生活の学費も全て親に出費してもらったし、大学最後の2年間は数少ない友達とバカみたいに遊べた事以外は完全に無駄だったなと思う事が今でもある。
~社会人時代~
会社に入社して、初日から12時間労働であった。
初めて会う会社の先輩や上司とのやり取りにも終始緊張しっぱなしであったことと、朝から晩までずっと肉体労働だったこともあり、一日でへとへとになった。
しかしこれは序の口であり、2日目以降、16~18時間以上の労働が当たり前となった。
また非常に運の悪いことに、直属の上司が平気でパワハラを行う性格の持ち主であった。
しょっちゅう上司に
『根性が無い!』
『新人らしくテキパキ動け!』
『お前 24 歳だろ?そんなこともできないのか!』
『お前みたいな奴に給料が支払われるだけありがたいと思えよ?』
などと罵倒されたりした。
さらに僕自身の人見知りな性格、自信無さ気な態度が癪に障ったのか、仕事と一切関係ないような些細なことであっても嫌味を言われたり、僕自身の人間性に問題があるかような発言をされたりもした。
まるで家畜同然だった。
家に帰ったら飯を急いで掻き込み、急いで風呂に入り、すぐに床に着くも時間は既に12時過ぎ。朝5時に家を出ないと出勤時間に間に合わないため、睡眠時間は限られている。
実家暮らしのため、会社から帰ってくるのが異常に遅い僕を心配して両親から何度もメールが届く。そして帰宅した頃には日付が変わっており、憔悴しきった僕を見て両親が心配そうにしている。
仕事の合間の休憩はほとんど無く、昼休憩でご飯を食べる時でさえ上司に
『5分以内に食って戻ってこい!それぐらいしないと社会人として失格!』
と煽られる。
もちろんそんな短時間で食べられるわけが無いため、10分以上経って戻ると、
『お前は決められた時間すら守れないのか!
院卒のクセに小学生レベルのルールすら守れないのは論外!』
と罵られる。
どうしても納得がいかずに反論すると、
『ウィダーインゼリーなら5分もあれば余裕で飲めるだろ!!』
という暴論まで言われる始末。
(もはや人間として扱われていない・・・)
入社して1週間も経ってない段階で、このように僕は感じていた。
中学生の頃、不良達に散々罵られたり馬鹿にされたりいじめられるのがどうしても嫌で、こういう奴らに関わらずに済むように勉強ばかり頑張ってきた。それなのに、いざ就活を乗り越えて働き始めると、不良がそのまま大人になったかのような上司の元に配属され、昔のトラウマを抉られるかのような目に遭う。
疲労回復が間に合わないほど過酷な業務であったことや精神的苦痛も重なり、2週間くらいで体調を崩した。それでも仕事を休むことは許されず、強制出社させられた。
作業中、何故か体が一瞬フワッと浮いたように感じた。無意識に涙が溢れて止まらなくなり、上司や同僚の前で泣いてしまったりした。
車の運転中、赤信号が目に入っているにも関わらず無意識にそのまま突っ切ってしまい、ハッと気づいた時には信号ははるか後方に・・・ということもあった。事故を起こさなかったのは本当に運が良かったと今でも思う。
これ以上続けていたら本気で死んでしまうかもしれないと思い、仕事のことは一切考えられなくなった。そこで直属の上司に会社を辞めたい旨を伝えた。
すると上司は、
「会社辞めたけりゃ勝手に辞めればええやん!!」
と大声で怒鳴った。
勝手に辞めればいいと言われたものの、そこから1時間近く、根性がどうのこうの、精神的に甘すぎる、お前はどこ行っても同じ、院卒のクセにどうたらこうたら色々言われ続けたが、最終的に上司は『お前の好きにすりゃいいじゃん』と言って終わり。
後日、社長に退職願を提出した。入社してまだそんなに日が経ってないこともあって、その日のうちに退職する形となった。
~退職後~
退職後は鬱のような状態になり、自宅から一歩も外に出られなくなった。再就職のことは一切頭に無く、ただひたすら自分の内面を見つめては落ち込んでいた。
親に『はやく再就職しろ』と言われるも、就活する気力は一切残っておらず、かといって親にそのことを話しても理解してもらえず、逆に怒らせてしまったり嫌味を言われたりするだけであった。
『何のためにお前を大学院まで行かせたと思ってるんだ』
『前の会社は明らかに異常だったんだから、早くあんたに合う職場をみつけて就職しなさい!』
『このまま時間だけが過ぎたら取り返しつかなくなるよ?』
など、毎日のように言われつづける日々。
親がそうやって僕を煽りたくなる気持ちは分かっていた。しかし、それだけ毎日文句を言われようと僕は就職活動をしなかった。僕は完全に自分の将来に対して悲観的になっていた。
『どうせ僕は普通の人みたいに好きでもないことを我慢しながら生きていくなんて器用なことはできない。』
『他人に罵倒されたり嫌味を言われたりしながらお金を稼ぎたくない』
『みんなそうしてるからと言われても、嫌なことはどうしても嫌だ』
『お金を稼ぐため、ただ生きるためだけに自分の好きでもないこと、嫌なことを我慢する人生に何の意味があるのか』
毎日こういったことばかり考えて引きこもっていた。勇気を出して普段僕が考えていることを親に話したりしてみたこともある。
しかし、
『そんな考え方では社会で生きていけません』
『嫌なことをせずに稼ぐ方法なんてあるわけないだろ』
『あんたの性格に問題がある。直すよう努力しなさい。』
『ずっと自室にこもってるから悩みばかり膨らむ。
働いてたらそんなこと考える暇なんて無くなるから働け』
などと言われ、全く理解されなかった。
僕の人生がこれから好転していくことなどありえない。最終的に一人で餓死するはめになるだろうと諦めていた。
~ネットビジネスとの出会い(バイナリーオプション編)~
会社を辞めて半年経った頃、たまたまインターネットでYouTubeを見ていた時に、『バイナリー・オプションで稼ぐ』系の動画を見かけた。何だろうと興味を持った僕は、その動画を思わずクリックした。
バイナリー・オプションとは簡単に説明すると、円が上がるか下がるかを予想する投資だ。例えば現在のドル円が110円だったとすると、数分後のレートが110円より上か下かを予想して任意の金額を賭ける。予想が外れると賭けた金額分の損失を被るが、予想が当たれば賭けた金額が倍になって戻ってくる。
僕が見た動画は、投稿者がバイナリー・オプションを実践して稼いでるところを配信しているものであった。その投稿者はなんと、たったの数分で数万~数十万円以上の利益を叩き出していた。
僕はその動画を見た時、
『こんな世界があるなんて嘘なんじゃないのか?』
『たまたま偶然当たった時の様子を配信してるだけじゃないのか?』
と思ったが、何もせず時間が経つのを待っているよりは何かした方がいいと思い、思い切ってバイナリーオプションの口座を開設することにした。
試しに5000円のみ入金し、適当な通貨ペアを選び、勘だけで数分後のレートを予想して1000円賭けてみた。すると僕の予想した方向にレートが動き、結果は勝ち。ほんの数分で800円の儲けが出た。たった数分でアルバイトの時給分稼げてしまい、拍子抜けしたのを覚えている。
そこから僕は、ただ勘だけに頼って何度も何度も勝負に出た。その結果、途中で何回か負けはしたものの、口座にあった5000円はなんと10000円を超えていた。その間ほんの10分程度であり、5000円以上の儲けが出たのだった。時給換算すると3万円以上になることに僕はものすごく驚いた。
『もしかしてこれは余裕で稼げるんじゃないか!?』
そんな希望が湧き上がってくるのを感じていた。
そこから僕は完全に調子に乗ってしまい、勘のみに頼ってひたすら1000円を賭け続けた。すると今度は、面白いように負けが続いた。10000円以上あった残高は、あっという間に2000円程度まで落ち込んだ。
そこからなんとか巻き返そうとし、一時的に9000円くらいまで挽回することができた。そこで止めていれば約4000円の利益になっていたのだが、最初に資金が倍以上になった快感が忘れられず、ついつい賭け続けてしまった。
ここから先の展開はご想像通り、口座残高が底を尽きてしまったのである。結局5000円の損失を被っただけであった。
これが現実なのか・・・
僕はそう思い、今後バイナリーオプションで稼ごうと考えるのは止めることにした。
人によってはギャンブル的な感覚で何度も挑戦し続けてしまい、全ての貯金を溶かしてしまうことすらある世界。これが僕の初めて経験したネットビジネスであるが、たった5000円の損失でサッと身を引けたことは良かったかもしれない。
~ネットビジネスとの出会い(YouTube編)~
バイナリーオプションでの失敗を期に、なるべくリスクを取らずにネットでお金を儲ける方法はないか調べてみることにした。
YouTube、アフィリエイト、2chまとめサイト運営、せどりなど色々な稼ぎ方がある中で、YouTubeで動画投稿してお金を稼ぐことに興味を覚えた。YouTubeは今や有名すぎて知らない人はほとんどいないと思われるため、どういったサイトであるかの説明は省くことにする。
僕はYouTubeで、いわゆる「テキスト動画」と呼ばれるものを作り、動画を投稿することにした。5~6年くらい前によくYouTubeを観ていた人なら分かると思うが、文字が下から上にスクロールするアレだ。
そのような動画を作って稼ごうと思った理由は、
『YouTubeで顔出し無しで月収10万円達成した方法をあなたにも教えます!』
という情報弱者をターゲットにしたコピーに釣られ、メルマガ登録してしまったことがきっかけだ。
そのメルマガの中で推奨されていた方法が、
『テキスト動画を作って投稿し、お金を稼ごう』
といったものであった。
その時は何としてでもお金を稼ぎたいと思っていたため、どこかうさん臭い方法だとは分かっていながらも手を出してしまったのだった。大学院を卒業した大の大人がこれであるから、我ながらどうしようもない・・・そんなことするくらいなら真面目に働けと思うことだろう。
動画の作り方については詳しく述べないことにするが、中学生、下手したら小学生でも簡単に作れてしまうような方法だった。本当にこんな簡単な方法で稼げるのだろうかと思ったが、メルマガを書いている人の言い分としては、
『世の中のほとんどの人はYouTube動画をただ視聴しているだけ』
『動画を作れるというだけで少数派』
『動画を作る人達よりも動画を観る人達の方が圧倒的に多いため、動画の需要は非常に高い』
といった理由があるからだとのこと。
だからこそ、
『テキスト動画でも頑張って投稿し続ければ多くの人に見られる確率が高まり、
最終的に大きく稼げるようになる』
のだそう。
僕はメルマガの内容を信じて、その通りに実践してみた。1週間で約30本のテキスト動画を投稿したが、再生されたのはその中のほんの数本だけであった。再生数は一番多くて10回もいかなかった記憶がある。その時点でトータルの稼ぎは1円にも満たなかった。
しかし、僕はそこで諦めなかった。
メルマガの内容には、
『最低でも3~6ヶ月頑張らないと結果が出ない』
『結果が出だしたら一気に再生されるようになる』
とあったからだ。
そして1ヶ月後・・・その頃には合計で100本以上のテキスト動画を投稿していた。再生数は少なかったが、中には500再生以上の動画も出てきたりしていた。最初の一週間に比べるとかなり再生数はアップしたのだが、トータル収益としてはうまい棒が10本買える程度のものであった。
正直辞めようかとも思ったが、
『最低でも数ヶ月は頑張らないといけない』
という言葉を信じ、根気よく続けようと思っていた。
そんな矢先に・・・・
~僕のチャンネルはBANされた。~
突然のことでワケが分からなかったが、今考えればクソみたいな動画ばかり量産しまくっていたのだから当然の結果である。
今まで稼いだ収益は全て無かったことになった(とはいってもうまい棒10本分であるが・・)。
BANされた理由は、
『無価値なコンテンツの大量投稿がなんたらかんたら・・・』
だったと記憶している。
ここで普通の人間なら、YouTubeで稼ぐことは諦めて仕方なく働きに出るかもしれない。しかし僕はこんな目に遭いながらもYouTubeで稼ぐことを諦めなかった。
『無価値なコンテンツが駄目なら、せめて最低限は人に見せられるような価値のあるコンテンツを作ろう。』
そう僕は考えた。
そこでYouTube上では一体どのような動画が多く観られているのか、どういったジャンルが人気なのか、そのジャンルは僕にも作れそうな物か、いろいろ調べてみた。
調べているうちに、いつの時代でもある程度の需要が見込めるジャンルを発見した。なんのジャンルであるかは特定を避けるために書かないでおく。
このジャンルならもしかしたらいけるかもしれないと思い、新しくチャンネルを開設し、ひたすら自己流で動画作成を行ってコンテンツの充実を図った。
簡単に作れるテキストスクロール動画と違い、1本完成するまでかなり時間が掛かっていたが、根気強く作り続け、気がつけば半年経っていた。
半年で投稿した動画数は約200本。その時点でのチャンネル登録者数は200人程度・・・YouTubeで新しくチャンネルを立ちあげて半年で200人は割と頑張っている部類には入るようだった。
しかし肝心の収益であるが、トータルで5000円程度であった。半年頑張って投稿し続けて5000円・・・正直言って完全に働いた方がマシなレベルであった。それでも僕は、会社で罵倒されたりした記憶がトラウマになっており、どうしても会社で働きたくないと本気で思っていた。
このままでは稼げるようになるまで時間が掛かりすぎると考えた僕は、思い切ってある方法を試してみた。
その方法とは、
『同じジャンルの中で結果を出しているチャンネルを模倣すること』
だった。
『なんだよパクリかよ!』とあなたは思ったかもしれない。もちろん僕は他のチャンネルを模倣しようと思った時、すごく抵抗があった。
ただよくよく考えてみると、僕が大学・大学院で論文を書く時やレポート課題をこなす際、著名な人の文献から参考になる部分を引用したり、結果を出している人の言い回しを参考にしたりしていた。そして、その言い回しをパクるのではなく、自分なりの言葉に置き換えて文章を組み立てていくといったことを普通に行っていた。
このやり方は、僕が通っていた大学のとある教授(以下、N教授)も推奨していた方法だったことを覚えている。
N教授が話していたことをなるべく思い出してみると、次のように発言していたと記憶している。(少し長いですが、大学時代にとても参考になった考え方なのでぜひ読んでいただきたい。当時の口調も再現してある。)
N教授『既に答えの分かっている問題についてレポートを書く際に重要なことは、上手い人の答えの書き方を模倣することなんですよ。
こう言うと皆さんよく勘違いしちゃうんですけど、模倣するというのはパクるということじゃないんですよ。
あくまで上手い人の文章を自分なりの言葉に置き換えて、しっかりと自分の言葉で書けばいいんです。
こうすると今度は、上手い人の文章はみな似通った文章になっちゃうんじゃないかって心配する人も出てくるかもしれないですけど、それはごく当たり前のことです。
上手く解答できているレポートというのは、総じて似たような論理展開で書かれているんです。レポート書くのが苦手という人は、まず上手い人の解答の仕方を模倣して練習するのが一番手っ取り早いです。
ある人とある人の文章を見比べた時に全く同じってことが無いように、自分なりの言葉に置き換えて書くようにすれば大丈夫です。』
ここで話を戻す。
僕は、
『同じジャンルの中で結果を出しているチャンネルを模倣すること』
が稼ぐための一番の近道ではないかと考えた。
この考え方は、上に書いたような大学時代のN教授の話を思い出したことで辿り着いた僕なりの結論であった。
大学という教育機関ですら上手い人のやり方を模倣しなさいと教えているわけなので、この考え方をネットビジネスに応用すれば稼げる可能性が高いと考えた。
僕はすぐさま同じジャンルで多くの登録者を獲得しているチャンネルを参考にし、そのチャンネルと似たようなテイストの動画をひたすら量産していった。その際、参考にしているチャンネルとの差別化を図るため、自分なりにオリジナル要素を考えて動画に組み込んだりした。
そこそこ有名なチャンネルを模倣してみたら月収5桁達成
すると1ヶ月も経たないうちに月収が10000円を超えた。新チャンネルを立ち上げて半年で5000円くらいしか稼げなかったのにもかかわらず、結果を出しているチャンネルを模倣するだけでいとも簡単に月収10000円を突破してしまったのだ。
ちなみにその頃の1日の作業時間は約4時間だ。
1ヶ月30日だとすると、
4時間✕30日 = 120時間
時給換算すると、
10000円 ÷ 120時間 ≒ 83円/時間
である。
正直まだまだ低すぎると言わざるを得なかったが、チャンネルを模倣するだけで収益が10倍以上に跳ね上がったことは事実であるため、この手法をとにかく続けていくことにした。
するとチャンネル模倣を開始して2ヶ月目にして、月収24000円を達成。3ヶ月目には月収30000円を突破した。4ヶ月目と5ヶ月目は伸び悩み、月収30000円台であったが、その頃にはチャンネル登録者数は1000人を突破した。6ヶ月目に月収50000円台を達成し、登録者数も増加ペースが早まっており、2018年に入る頃には1400人を突破していた。
この頃になると親に、
『パソコン前に座って作業してるだけでそんなに稼げていいね。みんな忙しく働いてるのに』
と嫌味を言われたりもした。
もちろん罪悪感はあったが、どうしても自分の性格的に社会に出て働くのは無理だし、普通の人のように生きていけないと本気で思っていたため、無理やり罪悪感を押し殺して作業を続けた。
『『僕はYouTubeで稼がないと人生辞めるしかなくなるんだ!』』
そう思う程、このビジネスに賭けていた。
2018年1月から2月にかけては広告単価が低いこともあり、月収30000円台まで落ち込んだ。
そんな矢先、YouTubeの規制が厳しくなった。
”チャンネル登録者数1000人以上かつ年間の合計再生時間が4000時間以上”
という条件を満たさないと収益化できないようになったのだ。つまり登録者数1000人未満で中途半端に稼いでいたチャンネルは事実上全て追放ということだ。
この頃、僕のチャンネル登録者数は1600人を超えており、1日あたりの合計再生時間は平均で約800時間あったため、条件はしっかりと満たしていた。1日で約800時間再生されていることからも、僕のチャンネルはYouTubeの需要を満たせているという自信にも繋がった。
YouTubeの広告単価が最も高いと言われる3月では月収60000円台を達成することができた。ちなみにこの頃の1日の作業時間は、模倣を始めた頃と変わらず4時間くらいであった。時給換算すると約500円である。
ここまで来れば、1日8時間以上の労働にすれば月収10万円を狙えるのではないかと思ったが、僕はそうしなかった。8時間以上働いてヘトヘトになるよりも、自分のペースを守ってコツコツと継続していった方が続けていきやすいと考えたからだ。
おそらく今を必死で生きている社会人の方々からすると、1日4時間だけしか働かないなんて甘すぎると思うかもしれない。それでも1日中働き続けて体を壊す可能性を考えると、1日4時間で仕事を切り上げる毎日を過ごす方がマシだという想いの方が勝った。
3月に対して4月は広告単価が一気に下がるので収益は減ったものの、登録者数が増えていっていることもあり、月収40000円台に落ち着いた。
このように月ごとに広告単価にバラつきがあるので安定した収入にはならないのだが、チャンネル登録者数はそこそこ順調に増え続けていたため、近いうちにYouTubeで月収10万円台を達成できるかもしれないという期待があった。
7月にはチャンネル登録者数2000人を突破し、そこからさらに目に見えて登録者増加ペースが早まった。
このまま頑張って続けていったら生活できるレベルの収入を確保できるようになるかもしれない。チャンネル登録者数3000人も意外とすぐに達成できそうだ。これからも頑張って運営していくぞ・・・と思っていた。
しかし8月に入った瞬間、僕は絶望を味わうことになった。
8月の朝、僕はいつものようにパソコンに向かい、毎朝眺めている収益画面を開いた。すると、いつもよりやけに収益が少ないことに気づいた。
なぜこんなに少ないんだろうか?・・・そう思った僕は、とりあえず自分のチャンネルページを確認してみることにした。すると、次のような文言が目に飛び込んできた。
チャンネルの収益化が無効になりました
僕はすぐに現実を受け入れられなかった。
なぜ、僕のチャンネルが収益無効化?・・・もしかして参考にしていたチャンネルのパクりだと思われた?・・・そうではなかったとしたら何が原因?・・・
しばらく呆然としていたが、YouTube運営からメールが来ていることに気づいた。
そのメールの内容によると、どうやら僕のチャンネルは『動画スパム』が原因で収益化が無効になったらしい。動画スパムとは何だろうと思い、メールを読み進めてみると、次のような文言があった。
【動画スパム】
不特定多数に向けたコンテンツ、迷惑なコンテンツ、同じコンテンツの大量の投稿。
正直言って意味がわからなかった。
『不特定多数に向けたコンテンツ』とあるが、そもそもYouTubeに動画を投稿する時点で不特定多数に向けたコンテンツを投稿していることに変わりはないはずだ。
次に「迷惑なコンテンツ」であるが、僕のチャンネルの動画は1日1000時間以上再生され、高評価率も高めであった。視聴者の方々もほぼ毎回良いコメントを残してくれたりしていたし、迷惑なコンテンツと判断されるような覚えは全くなかった。
最後に『同じコンテンツの大量の投稿』であるが、同じ様な構成の動画をたくさん投稿したのは事実ではある。しかし内容は毎回異なったものであったし、独自のオリジナル要素も毎回考えて組み込んだりもしていた。
また皮肉なことに、僕が参考にしたチャンネルも同じ様な構成の動画をひたすら投稿し続けているのだが、そちらは収益無効化されずに生き残っている。
運営は本当に僕のチャンネルの動画をしっかり確認した上でこういった措置を取ったのか非常に疑わしかった。
しかし、こうなってしまったからにはもうどうしようもない。YouTube運営の言うことは絶対であり、一度ペナルティを食らうと従う以外に選択肢がない。
YouTubeから事実上、
「お前クビね」
と言われたも同然であった。
僕はここで初めて、収益を他の媒体だけに依存することの危険性を身をもって実感した。
どんなに良い動画を作り、どんなに視聴者に評価されるような動画を作ったとしても、運営が駄目だと判断したら全てが台無しになるのだ。
チャンネル停止じゃないだけまだマシではあるが、収益無効化されたことでYouTubeに動画を投稿し続ける理由は無くなってしまった。もう一度収益化するために新規チャンネルを立ち上げ、1000人以上の登録者を集める気力は残っていない。
もう本気で働くしか道は無いのか・・・
そう考えたが、それでも働きたいとはどうしても思えなかった。僕のことを何も知らない赤の他人に好き勝手陰口を叩かれながら生きる人生なんて絶対に嫌だと強く思った。
僕だけでなく、周りの人達もそういった理不尽な経験を我慢して生きていることは分かっている。僕の考えが非常に幼稚で自分勝手なものであると理解している。しかしそれでも絶対に働きたくないという想いの方が勝った。
~個人ブログの立ち上げ~
YouTubeチャンネルの収益無効化から約4ヶ月以上が経った。
この4ヶ月の間、このままではいけないと思い、とにかく何か始めないとまずいと焦ってはいたが、いつか収益無効化が解除されるんじゃないかと期待してしまい、なかなか新たな行動を起こすことができないでいた。
両親には収益無効化されたことは一切口にしていなかった。この事を話せば確実に強制的に働かされるのは目に見えていたからだ。
両親は僕がまだ稼げていると思っているため、家賃として毎月2万円家に入れなさいと言ってくる。YouTubeで貯めた貯金から毎月切り崩していたが、このまま底を尽きてしまったら稼げていないことがバレてしまい、確実に家に居られなくなってしまうだろうと思っていた。
『いや、そんなこと言ってないで働けよ!』
と思うかもしれないが、それでも僕は過去のトラウマが強すぎてどうしても働きたくなかった。
そんな矢先、友人からの後押しで思い切り個人ブログを立ち上げ、ブログAdSense収益を得るために頑張ってみる事にした。
~ブログ開始3ヶ月程度で精根尽き果て、ブログ放置~
ガムシャラに記事を書き続け、色々回り道はしたもののブログ開設1ヶ月程度でアドセンス審査に合格。合格後もひたすら記事を量産したものの、約3ヶ月で150記事くらい書いたあたりで気力がほぼ完全に削れてしまい、ブログを放置する事となった。
せっかく年額10000円以上サーバー代を払っているにも関わらずブログ記事執筆を続けていけない自分に嫌気がさし、しばらく無気力状態で3~4ヶ月くらい何もしなかった。
その間に貯金はどんどん減っていき、最終的に家賃として月20000円を払う余裕が無い所まで追い詰められた僕は両親に正直に稼げていない事を告白。
もちろんその後は両親から『早く働け』『いい加減にしろ』『今まで何やってきたんだ』等、プレッシャーを毎日のように掛けられたわけだが、過去のトラウマに縛られまくっていた僕は一切働きに出ようとしなかった。
~両親に強制的にアルバイト応募させられるも自ら辞退~
いくらプレッシャーを与えられても働きに出ようとしない僕を見かねて、親が勝手に親戚と話を進め、親戚が勤めているスーパーのアルバイトに応募させようと画策しだした。
アルバイト応募先の電話番号をいきなり渡され、『電話を掛けてすぐに応募しろ、応募しなかったら家を追い出す』等と罵られた。
僕は極度の人見知りであり、特に接客業に全く向いてない事は自分が一番よく分かっていたのでしばらく抵抗したが、それでも許してくれない親の気迫に根負けして結局アルバイト応募の電話を掛ける事になってしまった。
電話を掛けようとするだけで動機息切れが激しくなり、電話機の前で6時間以上震えながら泣いていた事を今でも覚えている。あまりにも僕が電話を掛けようとしないから親が勝手にボタンを押して無理やりにでも通話させる展開に持っていこうともした。
結局親に無理やりボタンを押される事は阻止したわけだが、最終的に8時間以上掛かって電話番号を押し、震えた声で応募した事を覚えている。面接の日程は数日後に店長から連絡するとの事で、一旦電話地獄からは解放された。
しかし後日、接客業のアルバイトに恐怖を感じてしまった僕は、親が家に居ないスキにもう一度応募先のスーパーへ電話をし、『別のアルバイトがしたくなったので、申し訳ないですが応募を辞退させて頂けませんか』と連絡。
もちろんすぐに両親にはアルバイトを辞退した事がバレ、こっぴどく叱られる事になった。
『せっかく親戚を頼ってあんたをスーパーで働かせようとしたのに何て事をしてるの!!』
『人見知りやから許されるほど社会は甘くない!!』
等と色々言われた事を覚えている。
結局家は追い出されなかったが、ここから数ヶ月の間両親とは険悪状態の仲が続き、本気で精神的に参りそうになった。
~収益停止したチャンネルを復活させるべく行動~
この頃あたりから本気で何か頑張らないとまずいと思い、収益停止してしまったチャンネルを復活させるべくガムシャラに行動しまくった。900本以上上げていた動画を全て削除し、動画スパム判定されにくいような構成を一から練り直して動画を作成し、ひたすら上げまくった。
その結果、2019年8月頃に収益停止していたチャンネルの復活に成功。約1年もの間無収入だった状態から月収3万円くらいまで回復させる事に成功した。収益が復活した事で両親もある程度安心してくれたが、『まだ月30000円程度なら全然食っていけないからマジで将来の事考えとけよ』と釘は刺された。
1年ぶりに収益が復活した事はとても嬉しかったが、その喜びは約半年後には無くなっていた。何故なら、いくら頑張って動画を投稿し続けても月収が上がる事はなく、2020年2月頃には1日8時間以上頑張っても月10000円程度しか稼げなくなっていたからだ。
~もっと真剣にYouTubeに取り組むべく別ジャンルのチャンネルを開設~
このまま同じジャンルで頑張って動画を投稿し続けても人並みに稼ぐ事は一生無理だと悟った僕は、思い切って別ジャンルのチャンネルを開設する事を決意。もちろんそのチャンネルも特定を避けるために具体的には書かないでおく。
他の有名YouTuberの動画構成、喋り方、会話のリズムや間の取り方、字幕フォントデザインの傾向、動画の音量バランス、カットの仕方等を独りで研究し、そこから自分でも出来そうな動画構成を考え、ひたすら真剣に新しいジャンルでの動画作成、投稿をし続けた。
その結果、2020年末頃から新チャンネルが突然伸び始め、チャンネル登録者1000人を達成。その後も今まで体験した事が無いくらい順調に登録者が増え続け、2021年2月までに10000人を突破。月収も人生初の20万円を突破し、最高日収24000円を達成する事が出来た。
2021年8月頃には夏休みシーズンかつ新型コロナによる巣ごもり需要の拡大の為か再生数がかなり伸び、最高日収自己ベスト約70000円を達成。更にその月の収益も人生初の100万円にギリギリ到達。最終的に2021年の総収益約800万円を達成した。
2022年は人生初の年収1000万円を突破し、貯金額の方も後で税金で支払う分を差し引くと大体700~800万円程自由に使えるお金を蓄える事が出来た。ほんの3年程前まで貯金が10万円前後しか無かった事を考えると、あまりの状況の変化に今だ実感が湧かないでいる。
『どうせ稼げてるのは今だけで、YouTubeなんて数年後に消えてる可能性だってあるんだからどうなるか分からないよ』という声が聞こえて来そうだが、自分は今までの人生就職から逃げ続けてきたわけであるし、アルバイト程度の労働すら恐怖で辞退する程の精神しか持ち合わせていないため、そもそもYouTubeを辞める理由が全く無い。
ここまで来たら高額納税者の仲間入り出来るよう努力していくしか無いと思って日々動画を作り続けている。
追伸:
最後まで読み進めてくれたあなたは相当な物好きのようですね。胡散臭い商材ページへの誘導なんてしていないのでご安心を(笑)。
最後まで読んでくれてありがとうございました。